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国産万年筆の誕生物語

※写真、文等はタウン誌深川より引用

お昼休みなど休憩中のお供にして頂ければ幸いです♪

舶来品がもてはやされた文明開化も華々しい明治時代、
中でも舶来高級万年筆は庶民の憧れだった。
そんな時代に、純国産の万年筆を開発を思い描く男達がいた。商船大学(現東京商船大学)出身の並木良輔和田正雄である。困難を極めた開発を支えたのは、荒波の中で生まれた男の友情と凛と輝く海洋精神だった。

並木良輔氏
現株式会社パイロット設立者
常務取締役時の写真

和田正雄氏
現株式会社パイロット設立者
代表取締役専務時の写真



〜1・明治丸に育てられた二人の男〜

 こんもりとした木立とレトロな建物が静かな時の流れをかんじさせる東京商船大学、現在女性124人を含む約850名の学生達がキャンパスライフを送っている。
 商船大学の遠い前身は三菱商船学校。永代橋下流水域に係留された社船「成妙丸」を校舎として、明治8年に設立された。当時の日本は明治
現在の東京商船大学1号館は昭和7年に完成戦前の貴重な建物の一つ。
維新のあと、国を上げて近代化への道を歩みはじめたばかりだった。国際的な視野の中で立ち遅れていた海運業は、貿易立国のうえからも外航海運の急速な発展をはからねばならない実情があったのだ。船員の大半を占めていた外国船員に代わる国内船員の育成を目指して商船学校はスタートした。
 かつての隆盛時代を物語るシンボルは、今
明治丸・現存する最古の鉄船で国の重要文化財に指定されている。建造当時は2本マストだったが、練習船となってから3本マストになった。並木と和田はこの船で海洋精神を学んだ
も構内の一角で静かに時を刻み続けている。もう二度と推進する事は無いだろう、「明治丸」だ。現存する最古の鉄船で、日本の船としては初めて国の重要文化財の指定も受けている。
 英国の造船所に発注された明治丸が誕生したのは明治7年。翌年から灯台巡視船として活躍し、明治9年には東北・北海道巡幸の帰路で明治天皇が乗船。現在、国民の祝日である「海の日」は、明治天皇がこの巡幸から帰港した7月20日にちなんで制定されている。
 全長73メートル、幅約9メートルの船には80人もの船員が乗り込み、船体の中央部分のほとんどを巨大なエンジンが占めていた。しかし、重厚なマホ
船内サロン・左右両側が船室、その壁面は金泥の額縁付き縦型鎧張り、重厚なマホガニーのテーブルなど細部にわたって、ロイヤルヨットにふさわしいつくり
ガニーのテーブル、半円形のソファ、柱に施された華麗な装飾は明治政府のロイヤルヨットとして活躍した面影を残し、当時としては最新鋭の船だった。
 第一線で野活躍を終えた明治丸は商船大学の係留練習船として譲渡される。その背景の一つに、日本の海運業の隆盛があった。譲渡された同じ年、大手海運業の日本郵船は欧州、北米、豪州の三大定期航路を次々と開設。これまで西欧人が占めていた船長や機関長のポストを、次第に日本人自らの手で担えるようになり始めていたのだ。戦後、練習船としての使命を終えるまでの50余年の間に、明治丸が育てた海の児は約5000人にも及ぶ。その中に純国産万年筆開発を成し遂げた並木良輔と和田正雄の二人の姿があった。


〜2・海上で結ばれた海の男の厚い友情〜
          
並木良輔は明治13年、埼玉県大里郡玉井村(現在の熊谷市)にうまれた。当時の商船学校に進学する学生の多くは海の近くで育った者が多かったから並木の存在は珍しかった。
 一方、和田正雄は明治11年、静岡県沼津町(現在の沼津市)の素封屋に生まれ、幼い頃から進歩的な教育を受けて育った。
 二人が商船学校へ進学した頃は海運業の隆盛期。当時の船員の給与は最低でも月俸30円、船長ともなれば月200円の給与が支払われた。銭湯2銭、米一升9銭、印刷工員・巡査・代用教員の日給が30銭であったことから推測しても、かなりの高給取りであったことも分かる。並木は機関化へ、和田は航海科へ入学したが、実は大学在学中には学年も科も違った事から言葉を交わした事は無かった。
 二人の出会いは船員時代。三井船舶会社の「有明丸」という貨物船で半年間同船するうちに、まるで運命の糸に引き寄せられるように、一気に意気投合した。寄るとさわると若い二人は将来の夢を熱く語り合っていた。
 ある時和田がこう語りかけた。「並木君、君は工夫が得意だから、今に何か本気でやれよ。君の精魂を打ち込んだ代物ならば僕は本気で世界へ売って見せる。やれよ!」その言葉に並木は「よしやろう!機が来たら二人でやろう!」と興奮気味にこたえた。もちろん、その夢が実現することになるとは、若い二人は想像もしなかっただろう。
 学生時代、二人は「七洋を家とし、海外に飛躍せよ」お幾度となく教え込まれていた。船員時代を後に並木はこう語っている。
 「その時代といえば、何もかも舶来々でもちきり”舶来”でなければ夜も昼も明けないといったバカ気切った時代でもありました。そしてこちらから輸出するのは、ほとんど皆無も同様。反対に帰りの船は、いつも舶来物資で満船のありさまでした。この惨めな片貿易の姿を毎航見せ付けられた私たちです。それが23〜24才という感激性の最も鋭かった我々二人への実物教育でした」
 海外渡航は夢物語に近かった同世代の青年達にとって、海を自由に渡り歩く船員は憧れの職業だったに違いない。また並木と和田の二人も、船員という職業に夢と誇りをを抱いていたはずだ。隆盛期とは言え、現実はまだまだ厳しい物だった。
 「七洋を家とし、海外に飛躍せよ」。学生時代に幾度となく教え込まれたこの言葉はこの時代から並木の心の奥深くに更に刻み込まれる事になる。

〜3・大学教授から夢の実現へ転身〜

明治39年、並木は母校機関化の教授となっていた。機関化は学内で一時閉鎖されていたが、明治16年になって汽船数の増加とともない機関手の需要が急激に強まったのだ。
 後輩達の指導にあたっていた並木は、不器用な学生が製図を引くための「烏口」の扱いに苦慮している姿を目にする。インクビンを行ったり来たりする「烏口」を横目に、何とかできない物かと考え始めた。
 「工夫が得意」と、親友の和田からも太鼓判を押されていた探究心旺盛な並木は、程
並木式烏口のポスター、大正4年に巣鴨の自宅内に「並木製作所」の看板を掲げている
なく軸にインクの貯蔵部をもつ烏口を開発。「並木式烏口」として特許も得た。だが烏口では使う人間が限られてくる。次第に並木の興味は万人に愛される「万年筆」へ引き寄せられていった。
 そもそも万年筆が初めて輸入されたのは明治初頭までさかのぼる。その後、明治15年に今の万年筆とほとんど変わらない性能のウォーターマン万年筆が輸入されるとその人気は一気に爆発。毛筆は硯を出して墨をすらねばならないが、万年筆はポケットから取り出してさっと書ける。その手軽さと舶来の高級感もあいまって、ハイカラ族の間にあっという間に広まっていった。
 国内産の万年筆もあるにはあったが、それは万年筆の心臓部であるペン先を加工する技術がなかったのだ。これは純粋な意味での国産とは言いがたい。
 並木の研究においての最初の難関も、磨耗性の高いペンポイントだ
った。一体どんな金属を使用すれば良いのか、皆目検討もつかなかった。ところがある日、見慣れた「羅針盤」にハッとなった。常に潮風にさらされているコンパス。しかしその支持ピンが錆びる事はない。そこに使われている白い金属。イリジウムこそ、ペンポイントの金属と同じではないかと直感したのだ。
東京商船大学の校章コンパス、コンパスからヒントを得てイリジウムの加工に成功し、金ペンを完成させた
 それから大正3年の春、並木はイリジウムの加工に成功し「金ペン」を完成させた。いよいよ万年筆の開発に自信を深めた並木は安定した教授の職を退き、東京巣鴨の自宅に「並木製作所」の看板を掲げ研究に没頭する。わずかな蓄えとすでに完成している金ペンの販売で研究は容易に続けられる計算だったのだ。
 だが、金ペンは思うようには売れなかった・・・。あれだけ捜し求めた硬質のペン先が、今度は並木を苦しめていた。

〜4・カネ5000エンオクッタ アトフミ〜

 万年筆はインクの通り道としてペンを縦に2つに割らなければならない。それまでの金ペンはペン先に、半分に割ったイリジウム球を丁寧に植付け、ペン先が離れないように球の切断面を研ぎ合わせていた。しかし、この作業は非常に効率が悪かった。おまけに紙当たりも悪く、ひどい時には先端の球が脱落する始末だった。
 独立したその年の暮れ。「切断は理論的には可能だ」そう確信していた並木だったが、資金繰りに行き詰まり万策尽きてしまっていた。新しい金ペンの完成を目前にしながら、妻と2人、グウの音も出ない状況に陥っていた。
 その頃、和田は実業家を志、下関で製氷業を起業し軌道に乗せていた。研究生活に入った並木に、幾度となく資金援助をしていた。海の上で築いた友情は、場所を陸に移しても変わることなく、さらに確固たるものになっていたのだ。しかし「これ以上の無心は、いかに和田とて不可能」と並木は知りつつも、最後の頼みに窮状を訴えた。
 翌日、大正5年元旦。正月の賑わいも、並木にとっては重苦しい新年だった。そして1月3日の午後、巣鴨の自宅に一通の電報が届く。
「カネ5000エンオクッタ アトフミ」電報の主は和田からだった。和田は並木の成功を信じ、年をまたいで金策に奔走していたのだ。送金した金は、現在の2000万円にも相当する大金だ。この和田の厚い友情に、並木と妻は互いを向き合ったまま、感激のあまり一言も発する事が出来なかった。
 追って届いた手紙にはこう書かれていた。「君の窮状を知って思わず涙が出た。友よ
大正7年、日本橋に株式会社並木製作所を設立した。
、自棄するにはまだ早い。僕がついている。ただし、もうこれ以上は仕様がない。そこで僕はうちの社長の田中さんに君の窮状を話して、一肌脱いでもらう事にした。送ったかねがそれである。証文らしきものは一切いらぬ。君の最後の奮闘に期待するのみだ!」
 並木をはじめ工場の作業員達は男泣きに泣いた。和田が苦辛して集めた資金を元に、それまで手が出なかった機械を揃え、背水の陣を敷いた。
 1ヵ月後の大正5年2月9日、午後3時。使用耐久年数20年を誇る、世界最高水準の金ペンが完成した。並木からの打電で駆けつけた和田と共に工場は狂乱に近い完成が上がった。わが国初の純国産万年筆誕生の瞬間である。

〜5・「パイロット」と「浮輪」に込めた決意〜

純国産万年筆の誕生によって、並木製作所は大正7年に株式会社を設立する事になった。この時、並木は和田に社の経営を託し、自らは研究開発に専念する事を決意する。和田が「君の作ったものならば絶対の誇りを持って」といえば、並木は「君の指導の元ならば僕は幾度船を沈めても」と言うほど、2人は固い信頼の絆で結ばれていた。
会社の商標は2つ「パイロット」という万年筆の名前と「浮輪」のロゴである。
 並木はこの2つの商標についてこう説明した。「海上における『パイロット』という名前は、老練なる船長の事です。沢山の船が列を成して進み行く場合、一番先頭の船に乗って、沢山の船を案内してゆく老練なる船長を敬意をこめてそう呼びます。ですから我が社の万年筆『パイロット』という名前には、先導者、先駆者、あるいは先頭第一人者という意味があるのです。
 また私ども2人のように、かつて海上生活を経験した者は、浮き輪を命の親とし大事に致します。というのは、どんな海難が起こっても、身に浮き輪さえつけておれば大丈夫。幾度大波に洗われても、決して沈みきらないという自信があるからです。ですから『浮輪』は浮沈、すなわち困難があっても沈みっきりにならないという不屈の意気を表しているのです」
 万年筆開発のパイオニアというだけでなく、企業運営自体にも先駆者であり続けた。工員の月給製をいち早く導入し、万年筆の購入者全てに「伺い状」を郵送した。つまり今で言うアフターサービスだ。これは当時の企業としては斬新で画期的な試みだった。
 その後「株式会社並木製作所」は昭和13年に「パイロット万年筆株式会社(現在の株式会社パイロット)」に改称し今にいたっている。
  和田は昭和22年、69歳で
  並木は昭和29年、74歳でこの世を去った。
臨床の枕辺には、研究中だった「小型透明軸の自吸式万年筆」が残されていたという。

そんな男達の熱い思いがこもった
蒔絵万年筆の海外エピソードはこちらです。

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